山崎延吉先生の歴史1

「安城農林百年史」2001年10月発刊より

誕生日:明治6年(1873)6月26日
 出身地:石川県金沢市小立野山崎町  父:有将  母:喜久
 家柄:代々加賀藩に仕えた500石取りの武家の家柄でありましたが、 家録(今でいう財産)を失い、貧しくなったため山崎家は明治16年に川内町に引っ越ました。

 延吉少年は、生まれつき虚弱体質で、その上臆病だったため、近所の子供たちと遊ばず、7歳になって下等小学校に入学しましたが、集団生活について行けず、退学。10歳になって再入学しました。
 当時は半年ごとに試験があり、優秀であれば進級できたので、通常4年だった小学校を2年で終え、ついで仙石町の高等小学校で4年を修業し、金沢の専門学校に入りました。

(『我農生回顧録』より

学生時代は…

 この専門学校が、第4高等学校(本科3年・予科2年)に昇格したため、予科に編入。数学ができず落第することもありましたが、努力の結果、本科に進むことができました。このころから体力作りに励み、相撲・剣道・徒歩旅行などをして体を鍛えていました。人と話すことが苦手だったため、将来は、農業の経営をしたいと思い、一人だけ農科を選択したが一人きりのため学校からは特別扱いされてしまいましたが、不利を承知の上で、初志を貫きました。

 1894年(明治27年)9月。駒場の農科大学農芸化学科に入学しました。
 叔母(母の姉)の家に下宿し、大学へ通いました。

 2年修了後の休みに、卒業論文のテーマとした砂糖の研究をするために、国内の糖業調査を計画し、四国、九州地方を1ヶ月かけて調査旅行をしました。

 翌1897年(明治30年)1月には台湾に渡ってサトウキビの糖分を3ヶ月間データの収集をしました。
 日本に帰国した後、それをもとに卒業論文を作成しました。3年の時、卒業が危ぶまれることもありましたが、1897年(明治30年)7月10日に無事、東京帝国大学農科大学農芸化学科を卒業することができました。

福島県蚕業学校へ着任

 卒業後は、農科大学の松井直吉学長の薦めで、福島県蚕業学校の教員として就職した。
 はじめはとつ弁(言葉がつっかえる)だから教員はつとまらないと強く言いましたが、しばらくの間だけということで受諾し赴任することになりました。

 教壇に立たないまま、1ヶ月がすぎ、3ヶ月がたっても後任者が決まらなかったため、仕方なく化学と物理の教科を担当することになりました。
 何しろ、しゃべりが下手な上に、教え方もわからなかったため、しばしば立ち往生してしまったそうです。

 数ヶ月後、校長代理として県の教育会に出席することになりましたが、講演を頼まれてしまい、断り切れず、話を始めましたが、聴衆は退屈してしまい、終了時間になっても終わらなかったので、主催者は閉会の鐘を鳴らすことになりました。

 腹が立つやら、情けないやらで、演説の練習をすることを決意しました。夜中に原稿を作り、練習に練習を重ね、ようやく演説ができるようになりました。

 話し方が身に付くと、授業がおもしろくなり、生徒もかわいくなってきました。
 授業にも工夫を凝らすようになり、一生教育者としてやっていこうという気持ちになりました。

 この時点で、教育者としての山崎延吉先生が誕生したといえるでしょう。
 ここに2年間在職した後、大阪府立農学校に転任しました。