山崎延吉先生の歴史2

大阪府立農学校へ転任

 1899年(明治32)5月、大阪府立農学校へ転出されました。
ここでの教育の主なことは、農産物品評会や農村見学(遠足)の計画・実施でした。
ほかにも農家や、農村の実情を調査し農業教育のあり方を模索することになりました。

 この頃、『我農生』というペンネームで、大阪の農業雑誌『新農報』に農業時報といったものを書いて発表しました。これが農政家としての出発点でありました。『我農生』とは、「我は農に生まれ、我は農に生き、我は農を生かさん」ということであって、農のために尽くしていこうという信念を表明したものでした。
そして、その通りの生涯を貫いていくことになりました。

 ここには2年間在職し、1901年(明治34)9月に愛知県に転じました。

就任時のエピソード

 1901年(明治34)8月24日、大阪府立農学校から愛知県技師として赴任されました。
学校長としてではなかったのは、まだ、農林学校の設置認可がおりていなかったからです。
 1週間後の8月29日に設置認可されたことにより、県立農林学校長としての辞令が出されました。

 県庁へ出向き、知事から辞令を受け取ると、知事は「碧海郡は県会議長の内藤魯一先生の地元で、農林学校の設置に尽力された方だから、農林学校のことは、何でも相談するように」と言葉を添えられました。
続いて、その後挨拶にいくと、いずれも知事と同じ言葉でありました。

 ちなみに、内藤魯一県会議長(1846~1911)は、碧海郡知立町に在住し、当時56歳であった。
自由民権運動に身を投じ、愛国社の幹事、自由党が結成されてからは、愛知県を代表する幹部となり、議長を4回も務めるほどの政治家でありました。
 特に農林学校に関しては、三河部に設置できるように尽力したことから格別の思い入れを持っていました。

 しかし、山崎先生はそんなこととは知らず、みんなが同じことを言うので、いささか不信感を抱いていました。
そして、県庁内でばったり、内藤議長に行き会い、部屋に入って新任の挨拶をすますと、内藤議長は、今度できる農林学校への期待を述べた後、一歩踏み込んで学校の教育方針に及んだことから、つい反発してしまい、
 「学校のことは、学校長の権限でやらせてもらいたい。そばから口を出さずにほしい。」
と言ってしまいました。内藤議長は席を立ち、扇子を振り上げて早口に怒声を発し、そのまま立ち去ってしまいました。
山崎先生は「しまった」と思いましたが、後のまつりで、年長者に対して礼を失ったやり方だったと、反省しながら、その日は名古屋の旅館に泊まりました。

 翌朝、内藤議長は、わざわざ旅館まで来られて、「昨日は年甲斐もなく、誠に失礼なことをした。」と、丁寧に詫びられたので、山崎先生もまた、「私こそ、若輩な身で失礼なことを申しました。」と、深く詫びられました。
内藤議長は「さすが君は、武家の出だけあって、権威におそれず、自己の所信を貫かれるのは、全く敬意のほかはない」と称賛しました。

 このことがあったことから、二人は肝胆相照らす仲となり、農林の発展に役立つことになりました。

 山崎先生が、農林学校に着任する前、新しい学校では、どのような教育をしようかと考えられ、とにかく現状では飽きたらず、型破りの教育をしてみようという意向であった。型破りとはどういうことか、というのは具体的に述べられていませんが、

「現在の農業教育は、知識偏重に陥り、労働を忌み、実際の役に立たない教育」(『我農生回顧録』より)

がされているという認識を示し、それを打破する教育をしなければならないとしていました。

 その具体的方策は、
 ・ 教育は、勤労主義でなくてはならない。
 ・ 教育は、学校のみに閉じこめておくべきではなく、社会に延長すべきものである。
 ・ 教育は、環境をよくしていかねばならない。

 この3か条は、山崎先生の教育信条といえるものであって、このことの教育が実践されていくことになります。